りんごの事情

森りんごが送るエッセイの溜まり場

家族なんていらない、が変わるとき

私は結婚なんてしないし、家族なんてつくらない。
子どもを産むなんて無責任なことはしない。

こう自分に言い聞かせ、親が結婚の話題を持ち出す度に「そんなのは、いらない」と言い放ち続けてきました。

 

家族のなかに一人でもおかしい人がいると、ほかの家族が犠牲になります。

家族の中で一人だけ気の優しい人がいると、ほかの家族がその人をめがけて攻撃してきます。

その人が反撃しないとわかると、それはどんどんエスカレートしていきます。

家族の中で決まった一人を攻撃することが当たり前になっている家族は、その一人がいないと関係が成り立ちません。その一人がいないと、自分たちが壊れてしまうから、絶対に外には漏れないようにします。逃れられないんです。

 

その一人は、どこかで自分が家族のバランスを保つ役割であることを自覚しているので、「じぶん」を消すことでバランスを崩さないようにし、何が起ころうと何も感じないように調整する術を身につけていくのです。

 

そうして、家族のバランスをとるためだけに存在してきた人が、どうして新しい家族をつくろうとか、欲しいなどと思うのでしょうか。

自分が育った家族や家庭は、何かがおかしかったと自覚すればするほど、新しい家族に迷惑をかけるのではないかと思います。

 

人の人生を台無しにするくらいなら、自分は一人で十分なのです。

 

でも、この世の中には、そういう考えもすべてひっくるめて「いいよ」と言ってくれる人が存在するみたいです。

 

時々、いろんなことを思い出して、仕事も生活も手につかなくなってしまったときも、「ゆっくりしてね」と言ってくれる人が存在するみたいです。

 

こうやって、振り返りながら書いていると、いろいろな波が押し寄せてきて、<日常>を送るどころではないのですが、そういうときも、そっと、淹れたてのコーヒーを静かに置いてくれる人も存在するみたいです。

 

家族って、いいものみたいです。

 

 

 

今日、「期待しない」をやめる

子どものころに、大人に期待することをやめた人は、いつしか自分以外のすべての人に期待することをやめてしまいがちです。

その人に向ける期待を少しでも持っているから、不満が出たり、むやみに傷ついたりするんだろうと思いながら過ごしてきているかもしれません。

わずかな期待すらも持たなければ、突然小さな1が足されただけでも、大きな幸福感に包まれることを知っているからです。そっちの方が、傷つくよりもずっといい。そう思っているかもしれません。

 

でも、誰に対してもほんの少しの期待も持たずに生きていくって、正直つらくて寂しくてしんどいです。誰にも期待しないというスタンスを守っていると、いつしか自分自身が誰からも期待されていないんじゃないかと思えてきます。

少しの期待もされない自分に、存在する価値なんてあるのかと思い始めます。

それをさらに突き詰めて考えるのは、考え方によっては本当に危ない。
自分が病気になってしまいます。
世の中は「深く考えよう」なんて、考えることばかり言ってきますが、考えなくてもいいことも、ちゃんとあるんです。

 

世の中には、すぐに「助けて」「困った」と言える人がいて、「いいなあ、私にはできないなあ」と思ってしまいますが、それってあなたにも、ちゃんとできることだと思うんです。

人に頼るって、ものすごく怖いし、エネルギーを消耗しがちですけど、ちゃんとあなたの話を聞いてくれる人はいます。対価を求めずにあなたに力を貸してくれる人っています。過去に、ことごとく期待を裏切られてたとしても、また同じことが繰り返されると決まったわけではありません。

 

ずっと何年も「期待しない」をやってるなら、そろそろやめてみませんか。

まずは今日、ちっさなことを誰かに頼んでみてください。
あなたが頼れる人は、案外、すぐ近くにいるかもしれません。

 

 

 

 

 

「おふくろの味」を知らなくても大丈夫

「お母さんの手作りお弁当」とか「おふくろの味」っていう言葉を、懐かしさや愛情の代名詞のように使うときってあります。

甘ったるくてちょっと焦げた卵焼きとか、甘辛に煮られたホクホクのジャガイモとか、何回言っても上達しない茹ですぎたスパゲッティとか。

お母さんが作ってくれた料理の一つ一つを挙げながら「あのころに戻りたいなあ」とか「よかったなあ」と思い出せる人は、今がどうであれ、それはとても幸せなことなんだと思います。

 

でも、その一方で、ゆっくりとご飯を噛む時間すら与えられなかった人もいるし、遠足のお弁当も自分で作らなくてはいけなかったので、日の丸弁当を隠れて食べていた人とか、学校の給食だけが頼りだったという人もいます。

「お母さんの手作りお弁当」や「おふくろの味」という言葉が懐かしさを語る共通語、というのは実は一部の人にだけ当てはまるのかもしれません。

 

大人になって、そんな共通語を理解できていない自分を、すっごく惨めだと思っていた時期があります。だから、自分で作っていた事実を「自立していた」と置き換えて語っていたんです。

今は、子どもやパートナー、そして自分のために「お母さんのお弁当」や「おふくろの味」を作ります。時間のあるときは、できる限り一皿ずつを丁寧に作り、おしゃれに盛りつけます。あのとき頑張っていた、私のためにも。

 

自分だけでも、パートナーと二人でも、にぎやかしい子どもと一緒でも、丁寧に心を込めて作られた料理を食べると、ほっとするんです。

暗闇の中でろうそくが灯されたときみたいに、わあっという声をあげてしまいそうです。

 

人が作ったものでも自分で作ったものでも、おいしいものを食べるっていう幸せは、過去につくった傷を少しずつ癒してくれるみたいです。

 

おいしいもの、食べよう。

 

 

 

母の子育てテンプレートをコピペできますか

お母さんが自分にしてくれたような子育てがしたい、と心から思える人がうらやましいんです。“お母さんが私にしたようなしつけは絶対にしないぞ”とか“私らしい子育てをしたい”なんていう気持ちにはとっても共感できるのだけど。

自分の母親と同じ子育てをしようと最初から決め込んでいる人は、母親のことをそれほどまでに尊敬しているからそんな風に言えるのでしょうか。それとも、自分がとても優秀になったから、同じように育てれば同じく子どもも優秀になるだろうと思っているのでしょうか。

あなたとあなたの子どもは全く違う人間なのに、その子の良きも悪きも無視して、子育てテンプレートをコピペしたって何になるの?

そんなの、全く理解できない。

そんな風に思っていました。

 

子どもの頃、どうだったかってふりかえった時、最初に浮かんでくるお母さんは、すごく怒っているんです。棒を振りかざしながら、少しだけ、笑っているようにも見えます。

私はずっと泣いていて、夜も外でひとりぼっちで、裸足で、裸で。
家の横を通りすぎる車に、SOSすらできずに小さく丸まっているんです。

これって、いつまで続くんだろう。
本当に大人になれるのかな。
早く大きくなりたいな。
強くなりたいな。

 

そんなことばかり考えていたものでした。

だからきっと、「あんな子育てはしない、絶対に」と強く強く自分に言い聞かせ、固く心に誓ってしまうのでしょう。

だからきっと、何の疑いもなく自分の母親の子育てを受け入れている人が、不思議でたまらないのでしょう。
 

きっと世の中には、ただ私が知らないだけで、とっても素敵な関係でいられる母子もいて、そういう人は、ただ純粋に母親を尊敬し、一人の女性としてあこがれているのかもしれません。

そういう気持ちでいられる親子が増えたら、もしかしたらもっともっと穏やかに、豊かに社会はまわっていくのかもしれません。

 

何も考えていないだけの人たちだと、勝手に決めつけてしまっていました。
そうじゃなくって、きっと、私もそうでありたかったんだと思います。