「おふくろの味」を知らなくても大丈夫
「お母さんの手作りお弁当」とか「おふくろの味」っていう言葉を、懐かしさや愛情の代名詞のように使うときってあります。
甘ったるくてちょっと焦げた卵焼きとか、甘辛に煮られたホクホクのジャガイモとか、何回言っても上達しない茹ですぎたスパゲッティとか。
お母さんが作ってくれた料理の一つ一つを挙げながら「あのころに戻りたいなあ」とか「よかったなあ」と思い出せる人は、今がどうであれ、それはとても幸せなことなんだと思います。
でも、その一方で、ゆっくりとご飯を噛む時間すら与えられなかった人もいるし、遠足のお弁当も自分で作らなくてはいけなかったので、日の丸弁当を隠れて食べていた人とか、学校の給食だけが頼りだったという人もいます。
「お母さんの手作りお弁当」や「おふくろの味」という言葉が懐かしさを語る共通語、というのは実は一部の人にだけ当てはまるのかもしれません。
大人になって、そんな共通語を理解できていない自分を、すっごく惨めだと思っていた時期があります。だから、自分で作っていた事実を「自立していた」と置き換えて語っていたんです。
今は、子どもやパートナー、そして自分のために「お母さんのお弁当」や「おふくろの味」を作ります。時間のあるときは、できる限り一皿ずつを丁寧に作り、おしゃれに盛りつけます。あのとき頑張っていた、私のためにも。
自分だけでも、パートナーと二人でも、にぎやかしい子どもと一緒でも、丁寧に心を込めて作られた料理を食べると、ほっとするんです。
暗闇の中でろうそくが灯されたときみたいに、わあっという声をあげてしまいそうです。
人が作ったものでも自分で作ったものでも、おいしいものを食べるっていう幸せは、過去につくった傷を少しずつ癒してくれるみたいです。
おいしいもの、食べよう。